細木数子

書籍・メディア・格言・動画からたどる

細木数子

六星占術の創始者、細木数子の著作、メディア出演、発言記録をもとに、その活動と思想を整理したデジタルアーカイブです。

細木数子

書籍・メディア・格言・動画
からたどる

細木数子

六星占術の創始者、細木数子の著作、メディア出演、発言記録をもとに、その活動と思想を整理したデジタルアーカイブです。

細木数子の歴史 The Journey of Kazuko Hosoki

1938
細木家の四女として渋谷に誕生

四月四日、東京・渋谷の円山町百軒店、いわゆる花柳界付近に、八人兄妹の四女として生まれる。
数子の母ミツは千葉県で江戸時代から代々続く豪農出身で、東京神田の書店に奉公に出ている時期に、当時民政党員外団壮士だった数子の父・之伴に見初められる。之伴にはシゲという妻がおり、ミツは戸籍上は養女として迎えられた。
シゲは花柳界上がりでいつも丸髷をきちんと結って背筋を伸ばして座り、粋な風情を漂わせている女性だった。母・ミツは艶やかな髪と肌を持ち、割烹着をきちんとつけかいがいしく動き回る真面目一本やりの働き者だった。

1939
社会情勢は厳しくなるが、父・之伴が始めた立派な洋館風のカフェ「ロマンスクラブ」は、当時憲兵隊の兵隊たちで賑わい、数子ら子供たちは何不自由なく育てられた。
1944
戦況が悪化の一途をたどるとともに、国の要請でロマンスクラブも強制的に閉店となり、家族は農家出身の母・ミツと屋敷内の空き地を耕し野菜作りに勤しむ。裕福な環境で育った兄弟が土仕事を嫌がる中、数子だけ母と一緒に土を耕す子供だった。
1945
父・之伴が他界。空襲必至の情勢の中、数子は母の実家の千葉県竹岡村へ疎開する。
1946
戦争終結後、東京渋谷に戻るが、見慣れて育った道玄坂の街並みはトタン屋根のバラック小屋に一変していた。「タケノコ生活」「闇市」の言葉に象徴される過酷な暮らしだった。
山手線の地下道を歩くと両脇に子供が捨てられていたことを覚えているという。「戦争は勝っても負けてもつらい。何があっても絶対してはいけない」と後に語っている。
1947
母が「娘茶屋」を開店
数子が小学4年になったとき、料理の得意な母・ミツは家のバラック小屋を改造して「娘茶屋」というおでん屋を始める。戦後間もなくまだ生活苦の世の中で、母・ミツは昼は定食屋、夜は一杯飲み屋のおでん屋として昼夜働いた。そんな母を見かねた数子は家事やせんべい売りのアルバイトを自発的に行う子供だった。
1951

この頃街には「青線」と呼ばれる非公認の売春地帯が拡大。「娘茶屋」は青線化した周囲の店にお客をとられ経営が苦しくなる。
ある深夜に父の仏壇にすすり泣く母の姿を見て、中学1年だった数子は母の反対を押し切り店に立つようになる。13歳でまだ身長の低かった数子はカウンター内のビールの木箱に乗って客の相手をしていた。色が白く博多人形のようだった数子は客の評判を集め看板娘となる。

1954

店の売り上げを上げるために街に立って客引きをするが、幼さゆえの葛藤から、衝動的に猫いらずを飲み病院へ運ばれたこともあった。
「“食べるためには仕方がない”ー誰もがけっしていいとは思っていないけれど、それをしなければ生きてはいけない時代でもありました」(著書:「女の履歴書」より)

「ミス渋谷」に選ばれる

数子は「ミス渋谷」に選ばれ、「娘茶屋」はミス渋谷の出ている店ということで盛況になり、数子はチップを貯めて独立を夢見はじめる。この頃はアメリカ将校たちとの交流も盛んになり、英語やマナー、ゴルフやウイスキーなどの知識も身につけていった。

1955
17歳の数子は高校生の身分を隠して神田のキャバレー「白い手」で働き出す。先輩ホステスに「おでん屋とキャバレーは格が違う」と言われたことで、負けん気の強い数子はNo1になると心に誓い、3週間目で成し遂げてみせる。それにより執拗ないじめにあうと数子は先輩ホステスの髪を切る復讐をし、店をやめた。
スタンドコーヒー「ポニー」を開店
17歳の秋、経済の指南をしてくれていたなじみ客の証券会社副社長の薦めで、初めての自分の店スタンドコーヒー「ポニー」を開店する。同時に高校を中退。
朝5時起床で握ったおにぎりのモーニングサービスと退社時間に合わせた酒営業は近隣官公庁のサラリーマンに人気になり繁盛店に。
1956
「クラブ潤」をオープン
評判になったポニーは取得時の3倍以上の価格で売れ、それを元手に新橋のガード近くに「クラブ潤」をオープンする。数子18歳。
この頃のお客の建設会社の社長から「月に4回、これと思う人の話を聞け」という人間関係の指南を受け、実践した数子は多くの人格者から人生指南の影響を受ける。
1957
銀座8丁目「めるば」で雇われマダムとしてスカウトされ働き出す。ここでも人気を博し雑誌『酒』の巻頭グラビアページで紹介される。
1958
銀座にバー「かずさ」をオープン
かずさに通い詰めるお客だった資産家の御曹司と結婚する。嫁入りの為に夜の店(かずさ)を弟に譲り、料理教室、華道や茶道の花嫁修業を積む一方で、嫁入り後も続けられる商売としてベビー用品店「バンビーノ」を東京成城に開店。
しかし商売の生活を捨てられず、また嫁いびりにあい3か月で家を飛び出した。
1960
銀座に「バーだりあ」をオープン

再び銀座に戻り「バンビーノ」を売った資金で銀座8丁目に「バーだりあ」をオープン。
翌年、弟の経営する30坪の大型店「シンザン」を買い取り「クラブだりあ」をオープン。銀座で3軒の店を持ちホステスも100人以上使う堂々たる銀座のママとして君臨する。

1969
赤坂に大型サパークラブ「艶歌」をオープン
だりあに現れた不動産屋を名乗る客と出会い、共同して赤坂に大型サパークラブ「艶歌」をオープンするが、この客に大金をだまし取られ、暴力団から金を取り立てられる生活を送る。銀座の店も自宅も手放し、合計10億円近い負債を背負い込むこととなる。
さらにこの頃、母のミツが死去。この不運から抜け出するならという切羽詰まった思いで、占いに関心を持つようになり、六星占術の元となる学問を独学で研究する。
1970
無一文で負債を背負った数子は、青山のアパートで暴力団と警察の監視下に置かれる。逃げることもできず絶望する中で、ただ一つできることは本を読むことだった。この頃に古代中国思想や安岡正篤先生の書に出会い、心を持ち直すきっかけとなる。
残されていた「艶歌」を再開し再出発を果たす。
1974
赤坂にディスコ「マンハッタン」をオープン

借金返済のめどをつけ、赤坂に約100坪のディスコ「マンハッタン」をオープン。当時としては画期的な「生バンドの演奏で踊れるディスコ形式のクラブ」は若者中心に人気になる。友人だった美空ひばりさんも訪れた。

1977

知人の頼みで歌手・島倉千代子さんの記者会見に同席し話題になる。
当時、島倉さんは知人の保証人になったことで10億円を超える借金を背負っており、後見人として問題の解決に動いた。島倉さんの借金整理のために自分の店や私財を投げ打ち、芸能プロダクションを設立し、島倉さんのマネージャー役やプロモート、舞台の演出や宣伝活動まで手がけ、二人三脚で借金返済に奔走し、2年ですべて清算する。

1978
姪のかおりが誕生

数子の妹の長女(姪)のかおりが誕生。実子がいなかった数子は実の子のようにかわいがった。かおりが生まれた翌年に年子で妹が生まれたこともあり、3歳までかおりは叔母である数子と暮らすことが多かった。
幼稚園の送迎にスポーツカーで訪れたり、中学生でお見合いをさせたり、いつもかおりを気にしていた。
後に養女として迎えられたかおりは六星占術の継承者となる。

1979

日本を離れヨーロッパで西洋の異文化に身を置くことで東洋哲学の神髄を理解する。自分の人生に次々と起こる災難(借金、裏切り)を振り返り、それが個人の努力不足ではなく、「逆らえない大きな運勢の波(大殺界など)」によるものだと解釈。
自分と同じように苦しむ人々に示し、導くため、六星占術を広める執筆を決意する。
中国古来の万象学や算命学、易学などの資料をひもとき、誰もが応用しやすいよう独自に整理し「六星占術」を体系化してゆく。

1982
初めての書籍を出版
初めての書籍『六星占術による運命の読み方』を発行。ベストセラーになる。
1983
陽明学の大家、歴代首相の指南役だった安岡正篤先生と出会い、「あなたのやっていることは、まさに生きた学問(人間学)だ」という言葉を与えられる。安岡先生から、東洋哲学の根本原理ともいうべき学問をひとつひとつ学んでいき、それまで独学で修めてきた「六星占術」の運命学を確立していく。
1985
『運命を読む六星占術入門』を出版。大ベストセラーとなり、第一次占いブームを巻き起こす。
1986
『六星占術によるあなたの運命』シリーズを創刊
現在まで続く長寿シリーズとなる。のちにギネスブックに認定される。
1987
京都に新居を構える。
庭にプールを作って、溺愛するかおりを遊ばせていた。

現在は京都鑑定の場としても使用されている。
1987
全国各地で講演会・勉強会を開催

熊本での講演会を皮切りに、累計1200回の講演会・勉強会を全国各地で開催。延べ50万人を超える方々が参加した。
命ある限り、六星占術の教えを伝えたいと、30年にわたり継続して行っていた。

2000

京都に別邸を構える。京都一流の宮大工の手によって約2年の歳月をかけて建てられた。伝統技術を持った職人の仕事を後世に伝える場になるようにとの想いから、宮大工、庭師など日本の伝統職人の仕事で完成した。

2001
ギネスブックに掲載

1982年に発行された「六星占術による運命の読み方」以来、世界で最も多く売れた占い本の著者として、細木数子がギネスブックに掲載された。
その後も記録を更新し続け、現在は累計1億冊を突破して世界記録を保持し続けている。

2003

携帯電話のコンテンツ「細木数子六星占術」の提供開始。同年11月には東洋占いジャンルで一位を獲得。後にスマートフォン版へ移行し、のべ1,200万人以上が利用。現在は細木かおりが継承し、現代人の悩みや対人関係、家族・親子間の悩みにも答える占いを展開している。

2003
TBS系『中居正広の金曜日のスマたちへ』へ準レギュラー出演
「六星占術」を世に広めれば、誰かの幸せに貢献できるかもしれないと考えテレビ出演を承諾する。この出演を機に、爆発的な人気を博す。
2004
冠番組『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』がスタート

フジテレビ/2004–2008
共演:ネプチューン、徳光和夫/ 冠番組。「幸せのレシピ」など料理を通じた教えや、家庭の在り方を説く温かい一面も見せた番組。

冠番組『ズバリ言うわよ!』がスタート
TBS/2004–2008
■共演:くりぃむしちゅー、滝沢秀明/ 冠番組。人生相談やゲストへの厳しい助言が人気。「地獄に落ちるわよ」というセリフでも話題に。 圧倒的な人気から「視聴率女王」と呼ばれる。常に20%前後の高視聴率を記録し、TBSからはその貢献度を称え、特注の記念品が贈られた。
2008
テレビ出演を終了する
複数の冠番組を抱える多忙さから、本来の占術家としての活動に時間を割きたいという意向から、テレビの仕事から退くことを発表。
全国各地での勉強会、個人鑑定、執筆活動に戻り、活動を続けていく。
2012
動物愛護施設への寄付を開始

京都の動物愛護施設(ドッグランを含む施設)への寄付などの支援を開始。きっかけは自身の愛犬との出会いにより、当時の京都の犬の保護施設が非常に劣悪な環境であることを知り、改善を求めて行動を起こした。

2014
娘・細木かおりがマネージャーに
娘・細木かおりがマネージャー兼アシスタントとして、本格的に活動を開始。以前から鑑定の勉強を重ねていたが、この時期から公私ともに母を支える立場となった。

この頃の数子は、東京・神楽坂の事務所を拠点に勉強会、個人鑑定、執筆活動を行う。プライベートではおしゃれも買い物も大嫌い、部屋着がほころべば直して着る、家庭料理を自分で作り、シンプルな暮らしを好んでいた。
2015
韓国の檀國名誉文学博士の学位を贈呈される
1990年代、日本と韓国の歴史的・文化的な繋がりに深く着目し、民間の立場から両国の相互理解を深める活動を行っていたことが、日本と韓国の文化交流や学術発展への多大な貢献として認められた。
2016
動画番組「細木数子TV」をスタート
テレビからの引退後も、公式サイト内の動画番組には2018年まで出演。カンニング竹山さんとお料理をしたり、有名人を占ったり、TVでは語れなかった自身の思いを公開した。
2018
娘・細木かおりが「六星占術」の継承者として正式に活動を開始
これに先立ち、2016年には細木数子と養子縁組を結び、戸籍上も実の親子となっていた。
かおりは既にマネージャーとして活動を始めていたが、ある日、スタッフの誰一人立ち入ることの許されなかった個人鑑定の場へ、同席しなさいと言われた。相談者と数子だけの大切にしていた空間へかおりを同席させることで、「相談者の人生に向き合い、好転させていく」という鑑定を本格的に学ばせ継承させるためだった。
生涯続けた個人鑑定への想い
数子の個人鑑定の時間はまちまちだった。もの見たさに訪れた人は5分で「お金返すから帰りなさい」と言われた人もいれば、藁にも縋る思いでお金を貯めて来た人には、しっかり話を聞いた上で鑑定料を返金し「これで子供に何か買ってあげなさい」と言ったこともあった。
「六星占術は人生を好転させていく」ためのものという信念から、個人鑑定は10代で自宅で始めた頃からその生涯を閉じる間際まで続けていた。
2020
寄付活動「スマイルプロジェクト」を開始
細木数子が編み出した六星占術が40周年を迎えたことを機に、40周年記念事業を開始。「子どもたちが笑顔になる社会の実現」に向けたスマイルプロジェクトを始め、寄付活動を開始。
現在は母子シェルターの設立、訪問看護、悩みを抱える女性やお子さんの心のケアクリニックの開設などのチャリティー活動を、細木かおりが継承して稼働している。
2021
83歳で永眠
最期までの期間はコロナ禍だったこともあり、自宅で曾孫や愛犬と遊びながら、ゆっくりと過ごした。常に激動の時代を生きてきた数子は「最期は、人間らしく過ごしてあの世に行きたい」とよく話していたという。
最期は「自宅のいつもの布団の上で、家族に見守られながら逝きたい」という本人の希望通り、孫、曾孫を含めた家族皆に囲まれて旅立った。
現在は娘・細木かおりが唯一の正式継承者となり、その活動を継承している。